悟りと自己との関係について〜悟りの島へと渡る船〜
この記事は2021.4.29、19:45に更新しました。
更新内容:ささやかな加筆をいたしました。
〈誰もいない島〉の発見者としての〈あなた〉
〈無人島〉という〈誰もいない島〉を発見するためには、それを〈発見する者〉がいなければならない。
これくらいのことは、〈子供〉や〈獣/馬(や)鹿〉や〈コロンブス〉にだってわかるはずだ。
しかし、
〈悟りの境地〉へと至るためには、そこへと至る〈自己意識としてのあなた〉がいなければならない。
ということが、〈大人であるはずの探求者たちの大多数〉には、わからない。
その理由は、「探求者(のつもり)ではありながらも、《知性としての自己》さえも目覚めていない人が多い」からなのではあるが・・・
さらに言うなら、
〈全てを吸い込むブラックホール〉のような〈何もない無の境地〉すなわち《絶対意識の悟り》へと至るうえでも、そこへと至る〈個としての意識〉すなわち〈自己意識としてのあなた〉がいなければならない。
(この理屈だけでもいいので、)わかるかな?
〈発見者としてのあなた〉がいなければ、《絶対意識の悟り》の境地なんぞは〈永続的な夢見のない熟睡状態〉や〈永続的な死の意識状態〉と代わらない。
だから、そこに〈体験者としてのあなた〉となるべき《自己意識としての自己》が存在していなければ、もはやそれは〈意識状態〉や〈境地〉ですらなく、〈ただの昏睡状態〉や〈いわゆるご臨終の状態〉と代わらないのである。
さらに言うなら、
〈発見者としてのあなた〉がいなければ、あなたにとっては〈無人島〉という〈概念/知識〉だけしか存在していないのと同じことなのである。
しかし、それではいつまでたっても、〈テレビでは見たことがある〉が〈食べたことはないスウィーツ〉のようなものである・・・
〈地図では見たことがある〉が〈行ったことはない国〉のようなものである・・・
そろそろ、わかってきたのかな?
〈極上の料理〉には、〈それを食べる人〉が必要であるように、《絶対意識の悟り》においても、その〈境地〉を味わっている〈魂としてのあなた〉がいなければならないのである。
つまり、〈神〉との再会を果たす〈あなた〉こそが何よりも必要なのである。
つまり、
《悟り》のためには、〈理解〉と〈体験〉の主体となる《あなた》という存在が不可欠なのである。
それを言い換えるなら、
悟りとは、《(二足歩行や言語の習得などといったような)人類という種としての集団的進化》のように自然に起こるものではなく、《個としての意識の進化》すなわち《自己意識の進化》によってのみ達成されるものなのである
ということでもある。
つまり、
悟りとは《自己意識の進化》によるものなのである。
だからこそ、
〈悟り〉のためには〈個人レベルでのそれなりの修練〉が必要となる
のであり、
誰もが悟れるわけでなく、個人差も極めて大きい
というわけなのである。
もちろん、いわゆる〈無我の境地〉とでもいうべき〈究極の悟り〉、すなわち《絶対意識の悟り》の境地においては、〈従来の感覚での《私》というもの〉は消滅しているわけだが、そのような〈究極の島〉へとたどり着くためにしても、〈船としての私〉という〈乗り物〉は絶対的に必要なのである。
さらには、そのような
〈誰もいない島〉を発見するためには、それを〈発見する者〉がいなければならない。
そして運良く、あなたがそこにたどり着いたとしよう。
ならば、〈誰もいない島〉にはかつては誰もいなかったのだが、今ではそこに、それを発見した「〈私〉は在る」。
それは、かつては〈誰もいない島〉であったはずなのだが、発見者である〈私〉がいる今となっては〈誰もいない島〉すなわち〈完全なる無人島〉であるとは言い切れない・・・
そういう〈ややこしさ〉ゆえに、〈探求者たちの間に広まってしまった誤解〉もあるのだろうが・・・
そして、その〈発見者となる私〉こそが《自己意識としての自己》なのである。
その〈発見者となった私〉こそが《絶対意識としての自己》なのである。
船でそこへと運んでくれる〈船長としての私〉とは《知性としての自己》である。
そこへと運んでくれる〈船としての私〉とは《感受性としての自己》である。
船 | 船長 | 発見者 |
感受性 | 知性 | 自己意識 |
〈悟りの島〉にたどり着いたら〈私という船〉は不要となるのだが、そこにたどり着くためには〈私という船〉が必要なのである。
そして、最後に〈私という船〉から去って〈悟りの島〉へと渡る〈発見者としての私〉もまた必要なのである。
〈操縦士のいない船〉は、潮の流れに流されるだけである。
航海においては、〈危険な波〉のある場所は避けねばならない。
ならば当然、その目的地への到達においては、有能な〈船長〉によって操縦されている〈船〉の方が、早くて確実であるのは当然のことなのである。
それに、〈船長としてのあなた〉は〈悟りの島〉へと至る〈地図〉をも用意しておかねばならない。
さらに〈船長〉は《〈地図〉と〈コンパス〉と〈現在地〉とを正しく照らし合わせること》ができるくらいの〈知性〉や〈知識〉は有しておかねばならない。
裏を返せば、〈嵐に耐えうるほどの頑丈な船〉もなく、〈正しい地図〉もなく、〈それなりの知性のある船長〉、さらには〈乗組員全員をまとめる有能な船長〉がいなければ、〈あなたの船〉は〈悟りの島〉へとたどり着けないどころか、進化(真の成長)の方向に進むことさえもできなくなってしまうのだ。
そのようにして、〈発見者となるべきあなた〉や〈船長としてのあなた〉を乗せていた船は、はるか昔に〈欲望と想念の荒波〉の中に飲み込まれてしまったのかもしれない・・・
それゆえ、水平線の彼方には、〈誰もいない船〉だけが大量に漂っている・・・
《発見者となるべきあなた》は、すでにいない・・・
《進化の主体となるべきあなた》さえもが、すでにいない・・・
かろうじて〈船としてのあなた〉だけは残っているが、〈船としてのあなた〉とは〈誰もいない船〉にしか過ぎない・・・
〈誰もいない船〉となった《あなた》とは、〈波風まかせの浮き輪のような儚(はかな)きもの〉にしか過ぎない・・・
そして、これこそが多くの人々の〈人生という航海〉の成れの果てであり、探求者や瞑想者たちの〈探求や瞑想という航海〉における〈遭難〉の原因なのではなかろうか・・・
それゆえ、〈魂としての私たちの生まれ故郷〉でもある〈悟りの島〉は、今では〈誰も訪れることのない島〉、すなわち〈完全なる無人島〉と化しているのである・・・
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